ぼっちくんブログ

ぼっちは今日も世の中に疑問を抱き続ける

「詰める」という文化がなぜ害悪なのかを僕は小一時間老害共に説きたい

つ‐める
詰める
 
  1. 1.
    《下一他自》
    あき間を満たすように(一杯に)押し込む。「箱に商品を―」「奥に―・めて下さい」。すき間なく、またゆるみなく続ける。
     「根(こん)を―」
  2. 2.
    《下一他》
    ふさぐ。
     
    --------------------------------------------------------------------------------------------------
    という解説がGoogle先生では出ているんだけど、別にこの「詰める」ってビンにものを詰めるとか、ぎゅうぎゅうに押し込むようなことではなく、「問い詰める」とか「詰め寄る」という意味の方が正しい。
    それもかなりを圧をかけた状態で、というのが正解だ。後に引けなくなってしまう、もう後ろは崖ですよ的な。
     
    社会人経験を積んだ人ならおよそこの「詰める」という行為を1、2回は味わったことがあるのではないだろうか。あるいは味わわせたことがあるかもしれない。後者の人は今すぐ肥溜めに頭から落ちてそのまま出てこなくていいです。その方が世の中は平和になります。
     
    さて、この「詰める」という行為は前述した通り「問い詰める」という行為であり、部下あるいは同僚が失敗したときや、何としてでも納期を縮めたいとき、相手に交渉条件を飲んでほしいときなどに行う心理的圧迫である。
    人は何かミスをして、それを自覚したときに「しまった!」と思う人もいれば、「あーあやっちゃった」とほぼ動じない人もいるだろう。まぁそのリアクションは個々人によるものなので、ここで是非を問うつもりはない。
    問題は、この「詰める」という脅迫まがいの行為によって自分の思い通りの答えに導くための、マインドコントロール的なことをしようとしている部分にある。
     
    ざっとネットで検索した限りでも、上司や取引先によるこの「詰める」という行為はひどく嫌われているようで、パワハラモラハラに認定されており、何の生産性も生み出さないマウント取り野郎のごとく扱われている。
    それもそのはずで、この「詰める」という行為の本質は別に問題解決や現状を改善しよう、部下の成長を手伝おうということではなく「俺の言ってることが100%正しいだろぉぉぉぉぉぉ!?!?!?!?」という狂気に満ちた自尊心をさらに狂気に導くためのオ〇ニーに過ぎないからだ。
     
    例えば、あなたが営業担当だったとして、当月の売上目標が未達だったとする。
    当然、未達のままではまずいと上司は判断するので、なぜ未達に至ったかを説明しろとあなたに命じる。
    あなたは思いつく原因として
    ・得意先の予算が不足していた(発注できなかった)
    ・例年と比べて市況が悪いため、得意先が発注を渋っている
    ・弊社の商品の良さが、新規開拓先にうまく伝えられなかった
    などだったとしよう。上記の原因のうち、営業担当であるあなたに責任があるとすれば3つ目の「商品の良さの訴求の失敗」くらいだ。
    残り2つの原因については、得意先の首根っこを掴んで「契約しろオラァ」とでもしない限り解決しないし、自社ではいかんともしがたい要因である。
    必殺の値引きアタックもむなしく、得意先が「No」と言っている以上、策をめぐらしてもいかんともしがたい。
    しいて言えば解決策としては、「新しい顧客」が「予算に届く売上」を「ナイスなタイミングで発注してくれた」くらいのものだが、これは偶発的な要素が大きく、次年度の予算に組み込もうものなら爆死決定である。
     
    では、上司はこれを受けて何と言うか。
    「そうかー予算達成できなかったんだねー、次回頑張ろうねー」
    という甘く優しい言葉をかけてくれる人もいるかもしれない。あるいは、上記ほどゆるゆるではなくとも「原因が得意先にあるならいかんともしがたい」と考え、多少は諦めてくれるかもしれない。
    だが、世の中そうそう理解のある上司ばかりではない。まして、彼らはさらにその上の連中から「売上を上げろ」という命令を受けているため、今回は無理でしたの一言では済まされない。それに関しては、まぁ彼らの苦しさもわからんでもない。
    売上の管理、成長、優良顧客の醸成など、やることは山積みなので、プレッシャーもあるだろう。結局企業とは、トップダウンで上が「やれ」と言えば、下は従わざるを得ないのである。
     
    とはいえ。
    どうにもならん時はどうにもならないし、それを打破しようとするならば上司も部下と一体になって予算達成を成し遂げるために策を練るのが筋というものである。
    ところが、日系企業というのは年功序列で年齢を重ねれば責任も増えるはずなのに、こうした予算達成に関しては完全に「自己責任」として片づけてしまう。これがどうも外資系との一番の違いのようで、ネットの様々な体験談やつぶやきを見ると
    日系企業→上司は口は出すが、責任はとりたがらない
    (指示するだけして、失敗したら部下のせい)
    外資系→上司は口は出さない(出す場合もあるけど)が、責任はとる
    (どうやるかは本人の裁量、それを監督できなかった上司が悪い)
    という風潮があるらしい。
    これはいけない。
    何故かって、日系企業は社員は家族だの人財(人は財的な)とか言っておきながら、失敗はすべての人のせいで、管理職は責任を取りたがらない。そのくせ、良い成果が出たらここぞと自分のマネージメントが良かったのだとぬかしやがる。
    この結果、下のレイヤーである社員たちは「え、じゃあ失敗して怒られるなら最初からチャレンジしないほうがよくね?」という思考に陥ってしまう。
    事実、僕もそういう状態に一時期陥ったことがある。
    これは間違いなく日系企業にとって痛手だし、チャレンジする若手がいない会社にもはや未来はないだろう。
     
    結論、「詰める」という行為が「どうすればできるのか」という解決策を導くための方法ならば何の問題もないのだが、こと日系企業における「詰める」は往々にして「お前の努力が足りねーんだよ、なぁ?」というただの責任論になってしまっており、詰められた側も「頑張ります」「努力します」としか言わない、何の解決にもならない茶番劇になってしまっているから問題なのである。
    今後、この「詰める」という脅迫まがいの行為が建設的な意見を出し合う「議論」になることを、僕は切に願っている。